2021-03-17

納冨栄太エピソード-美術の先生の時代

泣きながら

悪さをした生徒に泣きながら叱る先生ってどれほどいただろうか。障害の足があるので椅子に座ったままで。生徒さんを下から仰いで泣きながら叩く。*「なんで、おいに叩かすっか」昭和の一コマである。

*どうして自分に叩かれるようにさせるのですかの意

看板や

バイクで大きなキャンパスを運んでいた。警官にいきなり止められた。「職業は?」に栄太氏「看板やです。」 すると*「しぇんしぇい、そがん噓ばつかんでよかやんね。」卒業生だった。恐らく初めからわかって職務質問 したのである。

*先生、そんな嘘をつかなくてもいいじゃないですか の意

学校の横の整骨院

栄太氏、龍谷高校美術の教師時代のこと、ある時バスの時間に間に合わずタクシーで出勤することになった。 龍谷高校までお願いしますとの栄太氏に対して*「お客さん、遠慮せんでよかよ。整骨院の前まで行ってやるよ。」栄太氏の障がいを持った歩き方から気を利かせた運転手さん。整骨院の前で降ろしてくれた。親切な運転手さんの気持ちが嬉しい。だが急ぐからタクシーに乗ってきたのだ。思い込み違いが本人に悟られるのは気の毒だ。電柱の陰からタクシーが離れるのをじっと待っていた。こんなに急いでいるのに運転手さんを見ると何やら記録している。タクシーが去るまでそこでじっと待っていた。それが栄太先生である。

*お客さん、遠慮しないでいいですよ。整骨院の前まで行きますからね。の意

灰の中のソーセージ

和生コロンボと生徒から言われていたのは真夏でもコートを外さなかったから。自分の醜い姿を隠すためだっ たと言う。ある冬の夕方、焚火にそのままソーセージを投げ込み、それを棒で取り出し灰を払いながら*「灰はきたのうなかですよ。こがん手で払ろうて、ほら、食べてんしゃい。」香ばしく焼けたソーセージが棒の先 に。僕らは顔を見合わせ笑いながら灰の中のソーセージを食べた。*生徒さんにも方言ではあるが敬語だった。

*K.N様の手紙から

*灰は汚くないんですよ。このように手で払って、さあ、食べてごらんなさい。の意

僕の好きな先生

忌野清志郎が歌った僕の好きな先生という歌がある。初めてこの歌を聞いた時は自分の耳を疑った。どうして先生の歌が流れているんだ。龍谷のOBの誰かが作ったのか。先生のイメージとぴったり重なる。先生は社会 の不正や矛盾を怒りをもって訴えるロック歌手のようだ。* 教室の一番前の席は熱弁する先生のつばが容赦なく飛んできた。

 *H.K様の手紙から

特にかわいがっていた息子たち

男子高校生は食欲旺盛である。明彦さんはお昼の弁当の時、友達の弁当を食べていた。弁当代を自分の夢のた めに貯めていた。栄太先生はそんな明彦さんを校内放送で職員室に呼び出した。叱るのではなく、職員室で一 風変わったお皿に入っている栄太先生の弁当を一緒に食べるために呼び出した。栄太先生は部活(美術部)が終わるともう一人の博長さんと一緒に二人を居酒屋に連れていく。カウンターで三人で酒を酌み交わす。コート姿の中年のおやじと学生服の二人。中には*「どがん関係ですか?」と聞いてくるお客さんもあり、先生は「息子です。」 客*「羨ましかですね。ばってん、あんまい似とらっさんですね。」先生「一人は連れ子で・・・」客*「いや~ すんまっしぇん。余計なことばきいて、、」 そして居酒屋がお開きになると今度はタクシーでそれぞれ明彦さんと博長さんの家に行き「明彦さんを借りま ~す。」「博長さんを借りま~す」と言って先生の自宅へ向かい二次会だ。自宅へ向う時、先生は自分の奥さん への手土産を二人に持たせていた。気を使っていたのかなと明彦さん。いや彼等のためには学校を辞めさせら れてもいいと言っていたと先生の妹。 そんな明彦さんだが夏休みになると土方をした。夢をかなえるためではない。汗をかいてアルバイトで稼いだ お金全部を酒にして先生に渡すためだ。それが彼の流儀であった。先生はずっとその酒を封もあけずにとって おいた。いつかまた一緒に飲む日のためにか。あの日々を記憶に留めておきたかったらなのか。

 栄太先生が亡くなった。有田の工房の横のカビだらけの納戸の一番下にその酒らしい物が封もあけずにに置いてあった。

*どんな関係ですか羨ましいですね。でもあまり似ていらっしゃらないですね。いや~すみません。余計なことを聞きました。の意。

*H・Kさん A・Fさんの証言より

木塚明彦氏のイラスト

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コメント1件

  • 葺本明彦 より:

    今では、そんな先生が、いたのかと思われますが、まさに本当の話しです。高校三年間は、部活の終わりは、ほとんど、食堂で飯、ラーメン、また居酒屋で、・・・俺の胃袋に飯をつめこんでもらいました。俺のお昼ご飯は、クラスの友達の何人かの弁当を食べるとの話しを聞きつけた先生は、
    アナウンスで俺を職員室に呼び出し、自分の弁当を差し出し食えと、さすがに感動して、胸が熱くなった事は、47年前の事ですが、今でもはっきりとその映像が、浮かんできます。それ以来何十年ものお付き合いをしていただき、俺とっては、先生は、親父であり、母親でした。また、先生と呼ぶとオヤジと呼べと何度も怒られたのも、事実です。

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